詩篇10篇

10:1 主よなぜあなたは遠く離れて立ち苦しみのときに身を隠されるのですか。

 この賛美は、主に対する問い掛けから始まっています。それは、苦しみの中にある時、主に求めたにもかかわらず、主の答えがないのです。まるで、主は、遠く離れて立ち、身を隠されているかのようです。

 この節は、この詩の記者の問題提起です。この詩の最後の部分では、主の栄光が現れる時を覚えて歌っています。彼自身が、主が力を表してくださらないことを嘆いているわけではありません。詩を効果的なものとするための導入なのです。

10:2 悪しき者は高ぶって苦しむ人に追い迫ります。彼らが自分の企みに捕らえられますように。

 「苦しむ人」は、「謙る人」のこと。謙りは、本質的には、主の言葉に対する謙りです。

 ここでは、高ぶる悪者と謙る人が対比されています。それは、自分の悪い考えに従う者と神の言葉に従う者が対比されているのです。悪者については、「自分の企み」と記されていて、人の持つ考えが対比されているのです。

 悪者は、神の言葉に従う者に追い迫るのですが、そのような御心にかなわない考えを持つ者が、自分の悪い考えに捕らえられ、神の裁きとして、その悪い考えにふさわしく報いられることを願っているのです。

・「苦しむ人」→謙る人。

10:3 悪しき者は自分自身の欲望を誇り貪欲な者は主を呪い侮ります。

 悪しき者の思いについて指摘されてます。「自分自身の欲望」と訳されていますが、「たましいの欲望」です。これは、エリの息子たちが、民が捧げる主への捧げ物を横取りしようとした時、注意された言葉の中に出てきます。

サムエル第一

2:16 人が「まず脂肪をすっかり焼いて、好きなだけお取りください」と言うと、祭司の子弟は、「いや、今渡すのだ。でなければ、私は力ずくで取る」と言った。

−−

 「好きなだけ」と訳されています。詩篇でも、単なる欲望ではなく、「心のままのありったけの欲望」ということです。彼は、それを誇り、欲望こそ尊いと考えているのです。

 貪欲な者は、欲望を制することをしません。あらん限りの欲望を追求するので貪欲と言われるのです。しかし、そのような態度は、神の言葉と相容れないのです。

 それで、主を呪います。自分の欲望に敵対するからです。そして、主を侮りその言葉を侮るのです。主を軽く見て馬鹿にするのです。主への恐れがないのです。主の言葉より、自分の欲望を優先させるのです。

10:4 悪しき者は高慢を顔に表し神を求めません。「神はいない。」これが彼の思いのすべてです。

 「高慢」は、原意は、「高さ」です。この高さは、神を求めることと対比されています。謙る人は、神の言葉を求める人です。しかし、自分を高める悪しき者は、それを顔に現し、神を求めないのです。ですから、彼の思いは、「神はいない。」です。

 なお、「思い」と訳されていますが、二節の「企み」と同じ語です。ここでは、思いの全般についていっているのではなく、彼の企みすなわち彼が「計画する考え」は、神がいないという前提に立ってなされているということを言っています。

10:5 彼の道はいつも栄えあなたのさばきは高すぎて彼の目に入りません。敵という敵を彼は吹き飛ばしてしまいます。

 悪者であるにも関わらず、彼の道はいつも栄えていました。彼は、神の裁きについて考えることはないのです。「目に入らない」と表現されていますが、目は、信仰の比喩です。すなわち、神の言葉を受け入れ、信仰によって神の裁きがあるということを信じようとしないことです。

 そして、彼にとってのすべての敵を吹き飛ばしてしまいます。非常に力があるのです。

10:6 彼は心の中で言っています。「私は揺るがされることがなく代々にわたってわざわいにあわない。」

 彼の心には、平安がありました。なぜならば、自分は、「揺るがされることがなく、世々にわたって災いに合わない。」と考えているからです。

10:7 彼の口は呪いと欺きと虐げに満ち舌の裏にあるのは害悪と不法です。

 「呪い」と訳されている語は、「誓い」です。悪者が呪いの言葉を語ったとしても、そのようなものは実現しないのですから、気に留める必要はないのです。

 彼が語るのは、誓いです。誓うのですから人は信用するのです。しかし、続く言葉は、欺きです。誓いますが、全て嘘です。そして、虐げとありますが、これは、言葉によるものです。彼は、相手を騙し、さらに言葉で攻撃するのです。

 口は、発せられる言葉を表しますが、舌の裏にあるというのは、その言葉の裏にあるものを指しています。

 「害悪」と訳されている語は、「害毒」とも訳されます。人に危害を加える悪が根底にあるのです。また、不法なのです。不法とは、神の言葉に背くことです。神の言葉に背くことを図っているのです。 

10:8 彼は村外れの待ち伏せ場に座り隠れた所で咎なき者を殺します。彼の目は不幸な人をひそかに狙っています。

 「不幸な人」と訳されている語は、「助けのない人」のことです。彼は、密かに助けのない者を殺すのです。

・「不幸な人」→助けのない人。

10:9 茂みの中の獅子のように隠れ場で待ち伏せます。苦しむ人を捕らえようと待ち伏せ苦しむ人を網にかけて捕らえてしまいます。

 「苦しむ人」と訳されている語は、「謙る人」のことです。彼は、神の言葉に従って生きている謙る人を狙うのです。待ち伏せし、網に捕らえるのです。

 悪者は、簡単に謙る人を捕らえることができます。彼は、誓いをします。謙る人は、神を恐れているので、それを完全に信用するのです。神の前になされた誓は、絶対です。しかし、悪者は、神はいないと心で誓いを言うような者ですから、平気で欺きを語るのです。簡単に騙すことができるのです。

・「苦しむ人」→謙る人。

10:10 彼の強さに不幸な人は砕かれ崩れ倒れます。

 「不幸な人」と訳されている語は、「助けのない人」のことです。この言葉が使われているのは、強い者と対比して、助けがないことを表現するためです。不幸な人では、そのことが正しく伝わりません。たまたまそのような災いにあったかのような印象を受けます。

 悪の力の前にこの人は、砕かれ、ひざまずき、倒れるのです。

・「不幸な人」→助けのない人。

・「崩れ」→ひざまずく。

10:11 彼は心の中で言っています。「神は忘れているのだ。顔を隠して永久に見ることはないのだ。」

 彼は、神が忘れているし、永久に見ることはないと心の中で言っています。神に対する恐れは全くありません。

10:12 主よ立ち上がってください。神よ御手を上げてください。どうか貧しい者を忘れないでください。

 「貧しい者」は、「求める者」のことで、神を求める人のことです。なぜこの言葉が使われるかというと、神の答えを期待した祈りになっているからです。求める者に答えてくださいと祈っているのです。

 「忘れないでください。」といっているのは、前節で、悪者が言っている言葉に対応しています。「神は忘れているのだ。」と言っています。

・「貧しい者」→(神を)求める者。

10:13 何のために悪しき者は神を侮るのでしょうか。彼は心の中であなたが追及することはないと言っています。

 悪しき者は、神を侮っています。しかし、それは、全く愚かなことです。それで、なんのために(何に基づいて)そうしているのでしょうかと問うています。彼らは、心のなかで、神が追求することはないと考えています。すなわち彼の不正が追求されることはないと考えているのです。

10:14 あなたは見ておられました。労苦と苦痛をじっと見つめておられました。

それを御手の中に収めるために。不幸な人はあなたに身をゆだねます。みなしごはあなたがお助けになります。

 「労苦」は、七節では、「害悪」と訳されていますが、同じ詩篇の中で、別の意味とすることは適切ではありません。それに、人の労苦は、報いという観点からは意味がありますが、この場合は、神を恐れる者が悪者から受ける事柄に関しての問題であり、それが労苦という程度であるなら、さして意味がないのです。これは、悪者のもたらす害毒のことです。

 そして、それによって受けた苦痛について示しています。神様は、それをじっと見つめておられます。放置しておくようなことはないのです。忘れたり、見ないというようなことはありません。

 神様は、それを御手によって、御自分が収めるために観察しておられるのです。すなわち、すべてのことを適正に判断し、裁くためです。神様が問題を引き受けなさいます。

 助けのない人は、神様に身を委ねます。霊的には、神様以外に助けのない人のことです。なぜなら、彼は、神様に身を委ねる人であることが記されているからです。

 また、みなしごは、社会生活においても助けのない人です。そのような人を神様が助けます。これは、主は「みなしごとやもめの父」と御言葉に記されているとおりです。

・「労苦」→害毒。

・「不幸な人」→助けのない人。

10:15 悪しき者と邪悪な者の腕を折りその悪を探し出して一つも残らないようにしてください。

 「悪しき者」は、悪を行っている者のこと。「邪悪な者」は、悪い者のことです。

 彼が祈っているのは、神様が悪に対してふさわしく裁くことです。

 「腕を折る」ことは、彼らはその力で悪を行ったからです。それができないようしてくださることを願いました。

 「悪を探し出し」と願ったのは、十三節で、「彼は心の中であなたが追及することはないと言っています。」という言葉に対応しています。「追求」と「探し出し」は、原語では同じ語です。徹底的に追求してくださることを願いました。

10:16 主は世々にわたって永遠の王。国々は主の地から滅び失せました。

 ここで主の御名が言い表されています。主は、世々にわたって、永遠の王です。すなわち、支配者であるということです。世界を永遠に支配しておられる方です。悪者はその方の存在を否定しています。そのような国民は、主の地から滅び失せました。「滅び失せ」は、完了形で、主がそのように必ずすることを強調しています。

・「国々」→主の地にそれらが存在することから、国々でなく、国民のことです。

10:17 主よあなたは貧しい者たちの願いを聞いてくださいます。あなたは彼らの心を強くし耳を傾けてくださいます。

 「貧しい者」は、主を求める者のことです。ここでこの言葉が使われるのは、彼らが主に願い求めているからです。その彼らの願いを聞いてくださる方であるのです。彼らの心を強くすることを願いました。彼らが、主が栄光のうちに支配されることを覚えて力付けられることを願ったのです。また、彼らが励まされるために、耳を傾けてくださることを願いました。

・「貧しい者」→(主を)求める者。

10:18 みなしごと虐げられた者をかばってくださいます。地から生まれた人間がもはや彼らをおびえさせることがないように。

 みなしごのように助けのない者、また、正しく歩んでいて虐げられている者を主は助けてくださるのです。人の目には無力な者たちを主は助けられます。そして、地から生まれた、主に対しては悪しき者たちが、主の前に歩む者たちを脅かすことがないように祈りました。それによって主の栄光が現されるのです。

 地から生まれたことは、三節に記されているように、自分自身の欲望のままに生きる人のことです。彼は、主の言葉の前に高ぶり受け入れようとせず、神に従うことをしない人たちのことです。